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ktc1080’s diary

連絡先ktc1080@gmail.com

e大学の可能事

・面白そうな、あるいは学べそうな講義がたくさん並んでいる、そんな場が可能だ。講義が講義を呼ぶ。しかも関係の二次消費もできて、そちらのほうこそを目的にすることさえできる。こういったことがe大学の単純な魅力になる。

 

・組織名から固有名へ。機関の人間にだけでなく、在野で活動する人間にも有用である場をつくることができる。 

 

・情報化の機能は良くも悪くも合理化・省略化。e大学が合理化・省略化するのは講義すること、受講することにかかる手間と費用。

 

・物も感性も均質化していく世界に歯向かうとする者も利用してやろうとする者も、内と外の境界・違いを無理に仕立て上げることでしかやりすごしていけないという不気味な時代に、虚構ではない認識と感性の探求の成果を自然に残せていける、自然に集まってくる、そんな場を設けることができる。 たとえその場のほとんどが虚構の側によって利用されるとしても。

 

人工知能について触れると、ディープラーニングの設計にあたって課題設定とデータ処理を切断するタイミングの決定は今のところ人間によってされているが、実用化が進めば当然これらも人工知能によってやろうという動きになるだろう。それは認知から判断までの一連の流れを自動化するということだが、一つの情報処理が全体の認識に作用し、無限に連鎖し続けるという問題がでてくる。それを切断によって解決しなければならない。切断もディープラーニングによって可能にするということになると思うが、ディープラーニングが特徴量の抽出をするために利用する膨大なデータの元は人間の判断履歴、行動履歴にある。文字情報から視覚情報までその対象となる。切断のタイミングはそこから学ばれるので、まず一般的な切断(人間の平均よりはやや上の能力を誇る)が可能になり、次いで例外的切断ができるようになるだろう。ただこの例外的切断が難しく、例外的切断を判断するのも一般的切断によって可能になった人間に近い人工知能となるので、いわば凡人が奇才を解釈しようとする事態に陥る。人工知能は切断を習得するために一般的人間へと寄っていかねばならず、そのために一般的人間のような判断しかできなくなる。そこから可能となる課題設定の自動化もおなじこと。ディープラーニングが抽出できたシニフィエシニフィアンに組み合わせる動作も、一般的人間による組み合わせる動作の履歴をディープラーニングで学習させることで可能にするのであれば、人工知能の知覚はやはり一般的人間に近いものとなるに違いない。そもそも人工知能が人間的な有用性から始まりそこに帰結するという前提もある。

 しかし人工知能が一般的人間の判断・動作を代替しうるということはいえる。そして、突飛な解釈が下手なだけで堅実な論理的認識・判断は得意なものとなるだろう。人間の欲望の処理を管理するのも上手くなるはずだ。資源の制限という単純な問題もあるが、もしも人工知能が人間の諸活動を——もちろん芸術文化も含めて——代替するとしたら、人間はだいぶ楽になれる。そんな人工知能が仕立て上げる円環に人間は疑いもなく埋没していくだろうか。 

 ところで人間は突飛なものが好きだ。そのなかでも人間によって究められた表現に強く惹かれている。一般的人間に出来そうにないことをやってのける人間を望んでいる。そしてそれに共鳴して、あるいは周りの平凡さに反発して、自身も何かしらに注ぎこまずにはいられなくなる人間がいる。評価されることで満足するかもしれない。しかし他からの評価を参考にしつつも、または全く無視して、納得するまで探求を続ける人もいる。 

 人間が人工知能の表現法を利用して表現をつくりあげることもなく、人工知能だけで完結する表現。それが人間に与えるのはバリエーションの豊富な、けれども生ぬるい快だ。人工知能による表現を人間の表現に利用するのであれば話は別だが。あるいは対象化された身体の快を直接に与える表現のほうにも人工知能は向いていくだろう。 

 人工知能にも突飛な表現も確かにできるだろう。だがそれは一般的人間が発想するようなありきたりな突飛だ。課題などの設定は人間がやって、一般的人間性を放棄させることで、突飛なものを生ませるとしたらどうか。人間には考えられない動作なり表現が人工知能に可能であるのは、人間あるいは人間に近くなった人工知能がそれを人間には考えられないものとして認識するからに他ならない。だから、そんな突飛は人間味の消えたシュルレアリスムの作品でしかない。 

 人工知能が与えてくる快に身を任せるのであれば、生ぬるい快か身体に直接的な快かシュルレアリスム的な快しか感じることはできない。人間はおそらく、これに満足しない。独自の哲学をもって気の向くままに納得するまで探求を続けた先の人間の表現を、彼らは期待する。ときには人工知能の表現を利用しながら。そして人工知能による表現が自明のものとなるほど、人間による表現の輪郭がかえって浮き上がり、期待されるようになるだろう。 

 これまでの情報化の流動と人の価値観の変化を、人工知能の実用化による単純労働主体の代替とあわせて、人間が人間による可能性の追求を至高なものにすることの予兆とみることもできる。それが確かになっていく時期が今だとすると、特異の表現を残せる場、それを楽しむ場、それに触れることで表現欲が触発される場が盛り上がってくるはずだ。金で人が動く時代である限りは、e大学はそんな場を提供できる。仮にその時代が終わるとしても、表現のデータを託すことはできる。 

 人間の可能事の一つである表現を、人工知能のみの表現から独立させて楽しめるものとすること。そしてそうすることで、形として表現するということ以外の、言表しがたい幸福な可能事がまたかえって映えてくるはずだ。